2011年7月15日 星期五
The climber can see the climber
A Thank You Letter / 5.30.2011
( 顧及翻譯流暢,這是封口語淺白的書信 )
親愛的朋友,日安,我想寫封信聊聊這次大崙溪愉快的旅程與照片,是我對你們的回禮。
親愛なる友達、こんにちは、私は手紙で今回大崙渓での愉快な旅路と写真について語ってみようと思う。3瓶のお酒に対するお礼である。
大部分的人以為我喜歡攝影。
ほとんどの人は私が写真好きだと思っている。
我的興趣在於溯溪,不在於將相機帶入溪谷,所以我對攝影會打斷自己享受的過程這件事,總是感到厭煩,2009-2010為結案記錄拍攝太多,近來我越來越少在戶外拿出相機按下快門,這次隊伍,其實是想藉機篩檢未來在戶外的記錄方式。
私の情熱は沢登りにあり、カメラを渓谷に持ち込むことではない。だから、撮影が沢登りの過程を享受するのを邪魔する、このことについて嫌気をさしていた。2009年から2010年はプロジェクトでの撮影が多すぎて、近来ますますアウトドアでカメラを持ち出しシャッターを切ることが少なくなった。今回のチームに際し、この機会をもって未来アウトドアでの記録方式を分析してみようと思った。
我過去總覺得,去記錄一個路線,用海拔、溫度、落差、繩距等數字;等高線與Topo,其實就能形成他人對這山野環境的想像,足夠提供他人定位判斷的直覺,那為什麼要寫過多的文字來造成形容不夠準確的風險?北穗高小屋的第一代主人說過小山義治說過,不精確的登山紀錄跟藝術的贗品一樣。我喜歡這句話。
過去の私は、ひとつのルートを記録するのに、標高、温度、落差、縄幅などの数字;等高線やトポなどで他人の山の環境に対する想像、ロケーション判断の直覚は十分つくと思っていた。それではどうして余計な文字で形容が不確かになるリスクを負わせるのか?北穂高小屋の1代目主人小山義治はこう言っていた、正確でない登山記録は芸術の贋物である。私はこの言葉が好きだ。
所以除非受人委託的任務或稿件需要,我也不常寫文章描述自己參加的隊伍或進行之登山路線。因為覺得文字多愁善感的表情總是溢於實況。溯溪或探勘運動的若是深刻,用書寫來形容實在是困難,更何況它實在可以視之為平常性的事情,才會常常發生。在城市裡做一個大的投資,或換一個工作,不也是一個大冒險嗎,為什麼平常人不會想提筆去描述,因為你不知道結果、沒有把握,那戶外運動的風險比起來反而平淡到不值一提。在我看法它們是一樣甚至超過的事情,你需要為後者準備更多危險的心靈。
他人に委託された活動記録や原稿などの仕事のため以外に、私は文章で自分の参加したチームを表したりはしない。なぜなら文字の感情は現実を逸脱するからだ。沢登りや探検活動が深刻であれば、文章で表すのは難しい。なおさらそれは普通のことだから、よく起こる。都市で大きな投資、転職するのも一つの大冒険ではないか、なぜ普通の人はそれを書き記したりしないのか。なぜなら結果が分からないし、把握できない。それではアウトドアスポーツのリスクは平凡すぎて言うのに値しないじゃないか。私の見方ではそれらは一緒あるいは前者がよっぽと危ないのに、後者のために危険な心持をしなければいけない。
我也很厭倦一些內容有許多形容詞的登山紀錄(事實上,我自己也寫過這樣不堪再回頭看的紀錄)。除非作者是我認識的人,而我知道他不會誇大其詞,否則我總覺得這個人在隊伍中沒幹什麼重要差事才有空這樣浪漫。如果你是攻擊手,心中大概只記得釘了幾根岩釘, 與架了幾個支點吧。廢話這麼多,不如用兩行數碼寫出座標,頂多再告訴我有沒有水源。這個看法其實偏頗,也不夠完全正確,但我確實只能將耐性維持至直接在地圖上標註有用的資訊與時間,以利日後使用。
私は内容にたくさんの形容詞のついている登山記録にもうんざりしていた(事実上私もそういう恥ずかしい記録を書いたことがある)。だから、知っている人で、物事を誇張して言わない人でない限り、この人はチームで何も大事な役割を担ってないから、こうロマンチックでいられる暇があるだと思う。もしあなたがアタッカーであれば、心の中はハーケンを何本打ったのか、アンカーをいくつ立てたかぐらいしか覚えていないだろう。無駄話をこんなにするより、二行の数字で座標を書き出して、せいぜい水源があるかどうかを言ってくれれば十分だ。私は事の後に直接地図に有益なインフォメーションや時間を記したほうが好きだ。
那麼,如何能忠實描繪一個攀登過程讓他人參考呢,我自己沒有答案,台灣每年隨著土石流與豪雨變動的地形也沒有,我的隊友中總是有很傑出的溯行圖記錄者,或是有體力在河床寫詳細描述的人;所以我總是作拍照記下地形、在回程後標定座標的工作,而這次大崙溪,我發現每個人手上都有一台相機,所以我自己減輕了這個份量。
では、いかにして忠実に登山過程を描き、他人の参考にさせるか。私は答えを持ち合わせていない、台湾の毎年土石流や豪雨で変動する地形にもその答えはない。私のチームメンバーの中にはいつも優れた遡行図の記録者、または河川敷で詳しい描写の書ける体力のある人がいる。だから、私はいつも写真で地形を記し、帰路のあとで座標を記す役割を担う。今回の大崙渓では、すべての人の手にはカメラがあり、私はこの役割を減らした。
也許影像可以忠實描繪一個攀登過程,也許不行。因為真正驚險的地形與片刻,沒有一個有確保者思維的人心中想著拍照,所以我發現自己在山上影像,總是非常的平淡無奇,就好像只是去河邊烤肉郊遊,沒有人正在攀爬,總是在攀爬不怎麼樣的地形;真的特別的地形,我只會拍出枯燥的影像,因為要忠實的記錄高度與周遭環境,看到隊友有帶相機,我甚至會把相機留在後車廂,事後一張照片都沒有。
映像は忠実に登る過程を描くことができるかもしれないし、できないかもしれない。なぜなら本当に険しい地形や瞬間では、誰一人確保者の考えを持っている人間はシャッターのことなど考えないのである、だから私の山での映像はいつも平凡で、まるで川辺でバーベキューをしているようである。登っている人がいないか、いつもどうってことない地形を登っているか;本当に特別な地形でも、退屈な映像しか撮れない。忠実に高度と周囲の環境を記録するため、チームメイトがカメラを持っている場合、私はあえてカメラを車のトランクに残し、ことのあとに一枚の写真もない。
相信每個溯溪者都了解這樣的渴望,當你看到一個有趣的地形與瀑布,那種想要爬上去嘗試的欲望如此強烈,不管爬不爬得上去你都想試試,掉下來你才會放棄(似乎跟卡拉ok拿著麥克風不放是一樣的行為)。所以面對一個有挑戰性的瀑布,你總是很忙碌於計畫如何攀爬,就算不是,也忙著至少當個確保手,看有沒有機會把別人拉下來換自己爬( 笑),總之,誰有空理相機。
すべての遡行者はこのような渇望が分かると思う、あなたが一つ面白い地形や滝を見たとき、ああいう登って試したい欲望はこんなに強く、登れるかどうか分からなくても試したい、落ちて初めてあきらめる(カラオケでマイクを手放さないのと同じような行為だ)。だから、一つの挑戦性のある滝に赴く時、あなたはどのように登るか計画するのに忙しく、そうでなくとも、確保手になって、誰か引きずりおろして自分が登ると(笑)、とにかく、誰がカメラなどにかまっていられようか。
這種欲望如此強烈與過剩,反映在我這次的照片的數量,我花了很長的時間整理它們,遠比預期中的久,所以我確實相當驚訝,在河床上哪來這麼多的時間 (不相比於傳統路線上隊友難以追趕的傑出體力,在河床中我的速度並不差,我想。)因為這次與你們同行,我有機會深度注視,這個自己真的非常喜歡的運動。
この欲望がこんなに強烈で過剰であることが、私の今回の写真の数に反映している。私は長い時間を費やして整理した。予想していたより長く、だから私は確かに驚いた、河川敷の上でどこからこんな時間が(普段の路線上チームメイトの体力が素晴らしくなかなか追いつけないのと違って、河川敷での私のスピードも悪くないせいかな)。今回あなた達と同行して、私はこの自分がとても好きであるスポーツに深く注視する機会ができた。
我又為什麼重新開始把相機帶入溪流呢。因為我想藉著傳達資訊,來回報我走過不同國家得到過的幫助,與他人給我的經驗。
私はどうして改めてカメラを持って渓流に入ったのか。私は情報を伝達することによって、私が違う国で得た助けや他人からの経験に報いたいから。
真正的地形難度的如何,並不用拍攝瀑布或是激流本身來顯示。一個攻擊手在放棄攀登一個瀑布選擇高遶的內心過程如何,我們並不知道,但我們知道風險在每個人心中都有刻度,這是戶外運動者真正的肖像。
本当の地形の難度の如何は滝や激流自体を写すことで表す必要はない。一人のアタッカーがどういった心境の変化を経て一つの滝を登ることをあきらめ、迂回することを選んだのか、我々は知ることができない。ただ我々はリスクの刻み目がそれぞれの心の中にあり、これがアウトドアスポーツをする者の本当の肖像である。
而攀登難度也不再有意義,因為人的身體狀況會變化,我想,就算未來我老到只能跨越家裡隔壁的排水溝,我可能還是喜歡從事剛好在邊緣之上一點點的行為。那什麼叫作真正的難度呢。
登る難しさも意味を持たない、人の体の状況は変化するからだ。将来、家の隣の排水溝を越えることしかできないほどに老いても、私はその限界ぎりぎり上の行為に従事することが好きだと思う。それでは何が本当の難しさなのか。
攀登者在技術成熟之後真正的難度,也許是在與不同文化、不同地域的人從事戶外運動的合作中,能建構隨時可以丟棄又重新撿回來的自我。遇到不同的想法與觀念,以低姿態傾聽,然後在選擇中找到最適合自己與地形的方式,非常清楚自己要什麼。我自己也還在常常學習放下與拿取中。你知道的,攀登者不缺固執。
クライマーが技術の成熟した後の本当の難しさは、違う文化、違う地域の人とアウトドアスポーツの協力の中で、いつでも捨てることと拾うことのできる自我を構成することにあるのかもしれない。違う考え方や観念に出会い、低い姿勢で耳を傾け、その後選択の中で自分と地形に最も適した方式を見つけ、自分が必要とすることを明らかにする。私自身もまだ諦めることととることを勉強している途中である。ご存知の通り、クライマーは執念を欠けない。
在海外隊伍中適應彼此文化,學習與交流很有趣,我總覺得真的要是像電影有字幕一樣,事後向不同語言的對方顯示私下用母語談話的內容,那劇情一定更精彩。有人會臉紅害羞;有人會對說出去的話後悔莫及;但不會有人真正的介意。不同文化的交流與衝撞一定是好的,一種新的角度,對我而言就是攜帶一種新的鏡頭,輕量化的好方法。
海外チームの中でお互いの文化に適応し、学習と交流は本当に面白い。もし映画の字幕のように、事の後に違う言語を喋る相手に内輪で母国語で喋った内容を表示することができれば、ストリーはもっとエキサイトするに違いない。頬を赤らめる人もいれば;喋ったことを後悔する人もいるだろう;でも本気で気にする人なんていないだろう。違う文化の交流とぶつかり合いは良いものに間違いない、一種の新しい角度、私にとってみれば一種の新しいレンズを携帯すること、それも軽量化の良い方法だ。
這次的大崙溪溯行也許不是我過去溯溪隊伍最困難的、最辛苦的、浸泡最久或沖刷最深的,卻異常愉快,也許是因為有趣的人與組合,但那種過癮的感覺久久不能散去。我起先不知道為什麼?但整理完照片後就知道了。
今回の大崙渓の沢登りは今まで行った沢登りチームの中でもっとも困難な、もっともつらい、最も水に浸かった、最も水に打たれたものではなかったけれども、しかしそれはとてつもなく楽しかった。それはメンバーの組み合わせが面白いからかもしれない、しかしああいうスカッとした爽快感はなかなか消えない。最初はどうしてだろうかと分からなかったのだが、写真を整理し終わるとすぐに分かった。
因為有相同嗜好的朋友同行做一件事,是最奢侈的事,並且知道你不用再擔心又要頭痛一兩年,才能湊齊足夠決心與假期的夥伴,去進行下一次長程溯溪。而其他台灣溯溪愛好者,也許能在溪流中越來越有機會與不同的想法相遇,讓人期待。
同じ趣味を持った仲間たちと同行し、一つのことに取り組めるのは最高に贅沢なことだから。また一二年時間をかけて、決心と時間のある仲間を集めなくても、次に長距離沢登りにいけることが分かっている。台湾の他の沢登りの愛好者も、渓流のなかで違う考え方に出会える機会がますます増えるかもしれない、わくわくすることじゃないか。
所以,當一個長程溯溪結束,攀登者又隱沒回到街頭之中,被車子與過多的人群所隱沒,攀登現實世界所需的難度其實比戶外的冰壁與瀑布還高,那為什麼我們心情如此愉快。
つまり、一つの長距離遡行が終わり、クライマーはストリートへと埋もれ、車や人ごみに隠れる。現実世界を登る難しさは、アウトドアでの氷壁や滝よりも高いのに、どうして我々の気持ちはこんなにも愉快だろうか。
因為只有攀登者能看見攀登者,即使在城市之中。
なぜなら、クライマーだけはクライマーが見える、都市の中にいても。
僅以這些影像,獻給過去在旅程中曾幫助過我,在台灣、歐洲、日本、中國的長輩及朋友,我也許沒有能力馬上回報你所開第一扇的窗,或因為工作與現實而不能允諾嚴謹的進度,但我會試著以能力可及的方式,繼續創造經驗,與找到方式傳達給下一位戶外運動者。
これらの映像を、過去旅の途中で助けてくれた先輩や友達にささげる。私には開けてくれた窓にすぐ報いる能力がないかもしれない、または仕事のため確かな進度を約束できないかもしれない、でも私はできる限りのやり方で、経験を創造し続け、伝達方式を見つける。
還有最重要的,此封信,給我這趟從山上到山下都相處愉快的旅程及隊友。
そして一番大事な、今回山の上から下まで愉快で仕方がない旅路とチームメイトに捧げる。
譯者 張建元